「簿冊」という言葉が使われ始めたのはいつ頃かご存知でしょうか?恐らくは明治極初年(1869-1971年)に著された村田文夫の「西洋聞見録」が初出であったと思われます。西洋文化の紹介書たる同書の中に「毎船此等の事を仔細に記したる簿冊あるものなれとも」という表現があるようです。(精選版 日本国語大辞典による)
古来より和紙で拠ったこよりで綴じた和綴(わとじ)製本の形や巻物の形式で文書がまとめられてきた日本では、近世幕藩体制から近代国家の官制が整備されて行く中で、維新直後から西南戦争が終わる明治10年頃までの混乱期に在って、太政官からの文書は二転三転、朝令暮改の状態であったことが良く知られています。こうなると固縛されている和綴式簿冊では頻繁な差し替えを行うには不便であるため、厚紙等で作った表紙と背表紙と、中身の文書の右端に2穴を開けて紐を通して簡易結びするという形式に変わったと小誌では考えています。考えてみれば、このように綴じを簡単に解くことのできるこの形式を固有に「簿冊」と呼んだ方が判りやすく、現在の簿冊形式に直接つながりますね。
また用語では、文字の書体だけでなく、漢字カナ交じり文が公文書や法律を記載する標準の文型となったのもこの頃のはずです。この頃、上のような変化と重なって、江戸期の公文書の書体であった「お家流」(草書体)から「唐風」(楷書体)に標準書体が変わります。岩倉卿や高杉等の長州志士のサロンのようなところで使われはじめ、唐風が討幕派、お家流が佐幕派の書体の風があったようですが、そんなことより楷書の方が書きやすいし読みやすいという事が普及には力になったのでしょう。
以上のようなことどもが、第2章執筆中に次々と立ち現われ、一つ一つが興味深く、調査するのに時間がかかってしまう等が原因で、皆さんに読んでいただくまでに完成させるにはまだまだ相当の時間がかかりそうです。
編集室も総力で支援のための調査等に当たっておりますが、読者の皆様には今少し時間を頂けますようお願い申し上げます。
文書管理通信編集室 樹令(いつき・れい)
2020年3月17日 |