簿冊の歴史を紐解く事から始まった論考『日本におけるファイリングシステムの歴史とあるべき姿』、世界的にも稀有な文書社会を迎えた江戸期の考察を中心に新原稿()が掲載されました。「江戸時代は、日本史上、初めて文字文化が庶民にまで行き渡った時代であった」と加藤徹著「漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?」(光文社、2006年、190頁)にはあります。論考では、核となった識字率の高さが、「江戸の教育力 近代日本の知的基盤」(大石学、東京学芸大学出版会、2007年)から紹介されていますが、私はこの書籍の中では、徳川吉宗が行った享保の改革の中の「情報を共有化できる公文書システムの整備」ということが一番目に留まりました。
学校では、主に財政再建を目的として行われた改革として学んだように思い出されるのですが、官僚制と公文書の関係を重視した彼のブレーンである荻生徂徠の「公文書制度の構築」という献策に応ずるように、公文書の調査・整理・システム化を推進したそうです。総計9万4200冊を数える公文書(内訳;年貢関係5391冊、人別帳3469冊、検地帳(土地台帳)7247冊、朝廷などの普請関係751冊、河川普請関係1万4099冊など)が分類・目録化され、旧例を探すのが楽になり、公文書のレファレンス機能が高まったとあります。読み流してしまっていたのですが、松岡資明著「日本の公文書 開かれたアーカイブズが社会システムを支える」(ポット出版、2010年、34頁〜)にも文書管理に熱心だった吉宗のことなどは紹介されていました。TV「暴れん坊将軍」でそのようなシーンを見た記憶はなく、荻生徂徠に相当する登場人物も出ていなかったと思います。が、文書管理が施されていたこと、そして、その後明治10年あたりまでは、日本人にしっかりとした公文書管理の意識があった、と、渡邉佳子先生(学習院大学非常勤講師・元京都府立総合資料館)の研究などを紹介しながら、松岡さんの著書には記されています。
ところで、感染者数が未だに増え続けている新型コロナウィルスですが、江戸時代にも当然ながら感染症は度々流行し、多くの人が命を落としています。特に幕末の文久2年(1862年)には、麻疹にコレラが追い打ちをかけ、江戸では7万人を越える死者が出たと言われています。江戸の人口が約100万人であったことに鑑みると、死亡率はものすごく高かったと言えます。当時、大量に「はしか絵」(木版多色刷りの浮世絵)が作成されました。これには、絵の他に、はしかの予防・治療に食べてよいもの悪いものなどの実用的な文字情報が大量に記されていました。コミカルな絵などに対して「大勢が亡くなっている時に、なんと不謹慎な」とか、「江戸時代の後進性を示すもの」として捉えられがちだったのが、今回のウィルスへの不安や不自由な生活を身をもって経験し、見方が変った、と朝日新聞2020年6月7日18頁文化・文芸欄で、鈴木則子先生(奈良女子大学教授)が書かれています。「制約の中で楽しめる娯楽を見いだし、つらい状況を笑い飛ばすことが、危機を乗り切るために不可欠だったのではないかと。」妖怪「アマビエ」の話題沸騰、さもありなんといったところでしょう。
文書管理通信編集室 樹令(いつき・れい)
2020年6月15日 |